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〔コラム〕 やきとり(焼きとん)の歴史を探る

鶏の焼鳥


「東京で焼きとん(=豚のモツ焼き)を食べるのはなぜでしょう?」

 そんなご質問をいただいて、さっそく調べてみることにしました。他の土地には、豚のモツを食べるという文化はあまりないんだそうです。(もっとも、最近は「東京発の食文化」として地方にも伝搬している例もあるようですが…。)

 天武天皇が675年に「肉食禁止令」を出して以来、江戸時代まで、日本では食肉が禁じられていましたが、実際には野鳥や鶏は食用に用いられていたようで、江戸時代初期(1643年)の料理書に、すでに焼き鳥の記述があります。

 明治以降、食肉の禁止は解かれますが、焼き鳥は庶民には手の届かない高級な料理だったようです。

 一方で、明治政府が誕生すると、東京には外国公館も集まり、牛乳や食用肉の需要が高まってきます。政府は百万人とも言われる下級武士の失業対策もあって、酪農を推奨し、主が国元に帰って空家同然になっていた屋敷の跡地などで酪農が始まりました。

大はし ちょうどこの頃、明治10(1877)年に創業したのが『名物にうまいものあり北千住 牛のにこみでわたる大橋』という狂歌でもおなじみの「大はし」です。浅草の「神谷バー」も、同じ頃、明治13(1880)年の創業です。

 麹町などを中心に、都心部はどんどん酪農地帯へと変身していき、明治21(1888)年には、東京は日本一の酪農王国(牛の頭数で見た場合)になったのだそうです。

 武蔵大学社会学科・橋本教授の近著「居酒屋ほろ酔い考現学」(毎日新聞社、2008年)によると、そんな明治26(1893)年に出版された「最暗黒の東京」(岩波松五郎)に、次のような煮込みと焼鳥の記述があるそうです。

  • 煮込: これは労働者の滋養食にして種は屠牛場の臓腑、肝、膀胱、あるいは舌筋等を買い出してこれを細かに切り、片れんとなして田楽のごとく貫串し、醤油に味噌を混じたる汁にて煮込みし物なり。一串二厘……。

  • 焼鳥: 煮込と同じく滋養品として力役者の嗜み喰らう物。シャモ屋の包厨より買出したる鳥の臓物を按排して蒲焼きにしたる物なり。一串三厘より五厘、香ばしき匂い忘れがたしとして先生たちは蟻のごとくにたかって賞翫す。

 煮込みが牛のモツで、焼鳥が鳥(シャモ)のモツではありますが、この時代に現在の焼きとんの原型ができあがっていたことがわかります。

 その後、明治の終わりごろに、『やきとりといって、牛豚のモツを串に刺し、タレをつけて照り焼きにして食わせる町の屋台店が夜になると現れてきた』ということが「いかもの・奇味珍味」(角田猛、1957年)に書かれていて、いよいよ今のものと近い焼きとんが、名前も「やきとり」として登場したことが分かります。

ライオン銀座 この頃に創業した「やきとり屋」がどこなのかわかりませんが、酒場としては、明治32(1899)年創業の「恵比寿ビヤホール」(のちの「銀座ライオン」(銀座))や、明治38(1905)年創業の「みますや」(神田)などが登場してくる時代です。

 そんな中、大正12(1923)年に、東京を大地震が襲います。関東大震災です。この震災から復興していくときに、やきとり(=焼きとん)が安価で手軽な酒のつまみとして屋台などで扱われるようになり、じわりじわりを広がっていったのだそうです。

 大正15(1926)年創業の「山利喜」(森下)や、大正11(1922)年に屋台で創業し、昭和4(1929)年に今の場所に店を開いた、やきとん「高木」(西巣鴨)などが、この時代にできた焼きとん屋さんです。南千住の「大坪屋」(大正12(1923)年創業)、門前仲町の「大坂屋」(大正13(1924)年)などもこの頃に創業したお店です。

高木 大坪屋 大坂屋
高木 / 大坪屋 / 大坂屋

 次にやってきた大きな波は昭和20(1945)年の終戦です。モツが戦後の統制品でなかったことや、新参者でも参入しやすい業態だったこともあり、やきとりは闇市を中心に、大衆的な食べ物として大きく普及し、徐々に東京全体に広がっていったのだそうです。

 創業順に並べると、昭和21(1946)年が「宇ち多゛」(立石)、昭和22(1947)年が「宝来家」(新宿)、昭和24(1949)年が「千登利」(池袋)や「鳥茂」(新宿)、昭和26(1951)年が浅草の「千代乃家」、そして昭和27(1952)年が荻窪の「鳥もと」と、もつ焼き、やきとりの名店が勢ぞろいです。

宇ち多゛ 千登利 千代乃家
宇ち多゛ / 千登利 / 千代乃家

 明治の終わりに生まれた焼きとんの文化が、関東大震災と、終戦という、2回にわたる壊滅的な破壊をきっかけとして、東京中に広がっていったのです。

 昭和30年代に入って、食肉用のブロイラーが登場し、やっと鶏の値段も安くなり、全国的に大衆焼き鳥屋も増えていきます。つまり、この時代になるまでの間は、やきとりと言えば、ほぼ焼きとんだったということですね。

 そして今、焼きとんは「安くて美味しい食べ物」として、雑誌などでも特集が組まれるほどになっていて、かつてお客の中心であったおじさん族のみならず、女性や、若い人たちも押し寄せているような状態。人気の焼きとん屋では、連日、行列が絶えないほどです。

 後の世に「バブル経済後の長引く不況によって、関東大震災、終戦に次ぐ、第3回目に焼きとん文化が拡大した時代」と記憶されるようになるのかもしれません。

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コメント

最近、巣鴨のやきとん屋にハマってます。30代後半のサラリーマンです。ようやく赤提灯が似合うオッサンになってきました。集団で酒を飲んでいる人より、一人で飲んでる人達のほうが酒のマナーが格段にいいですね。色々と勉強になりました。

投稿: おれ | 2009.07.09 06:20

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