雨の日も満席 … 酒亭「武蔵屋(むさしや)」(横浜・桜木町)
そぼ降る雨の中、「武蔵屋」に到着したのは午後8時前。このくらいの時間帯なら空いてることが多いのですがどうかな、と思いながら入口の引き戸に手を伸ばすと、こちらの手が届くよりも先にガラリと引き戸が開いて、中から男性ふたり連れが「お。我われが出るからちょうど入れるよ」と、お酒の入った気持ち良さそうな顔で笑いかけてくれます。「はい、どうもどうも」とそのふたりを見送って店内へ。
なんと店内はそのふたりが座っていた跡地を残してほぼ満席。ひぇ~っ。平日の雨の日なのにすごいなぁ。エアコンのない(実際にはあるけど効かない)店でも過ごしやすい季節だからでしょうか、左手のテーブル席も、奥の小上がりの座敷席も、全卓にお客さんが座っている状態です。
右手カウンター席の先客の後片付けが終わるのを待って、横浜に遊びに来た呑んだフルさん(以下、フルさんと略します。)とともにカウンター席に座ります。
フルさんは、私の仕事が終わって到着するのを、近くの「福田フライ」で飲みながら待っていてくれたので、すでに若干の下地ができています。それに引き換え、私はここが1軒目なのでまずは小瓶のビール(キリン一番搾り、500円)からスタートです。
この店は別名「三杯屋(さんばいや)」とも呼ばれていて、その別名どおりお酒(「桜正宗」の燗酒)がコップに3杯だけ飲めるのです。つまみもその3杯を飲んでいる間に、お決まりの5品が順番に出てくる。これが基本中の基本で、ちょうど2千円です。
この他に若干のオプションが用意されています。オプション(その1)。ビールを注文することができます。大瓶が700円、小瓶は500円で、銘柄はどちらもキリン一番搾り。ビールを注文した場合はビール用のつまみが1品(一皿)付きます。たいていはピーナッツなどの豆菓子です。ビールはお酒を3杯飲み終えるまでの間であれば注文し続けることができるようです。といって、ビールを何本も飲み続ける人はあまり見たことがありませんが……。
オプション(その2)。お決まりの5品のほかに、追加で注文できるつまみも何品か用意されています。何があるかは日によって違うのですが、きぬかつぎ、こはだ酢、煮貝などなどで、それぞれ400円です。
オプション(その3)。お酒は2杯で終了とすることもできます。この場合、お決まりのつまみは4品(最後のお新香が出てこない)となり、1,500円です。
小瓶のビールはあっという間に飲み終えて、1杯目のお酒をいただきます。目の前にはお決まりのつまみのうちの最初の2品、「玉ねぎ酢漬け」と「おから」が並びます。「玉ねぎ酢漬け」は柑橘酢が使われているらしく、口当たりも甘くてやわらかい。「おから」には小さく刻んだ椎茸や人参などの具も入っていて、チマチマとつっつきながら飲むのにちょうどいいつまみです。
そこへ現れたのは、同じ職場の後輩K氏。さっきまで一緒に仕事をしていたのに、ここでも一緒になろうとは! K氏も我われのとなりに空いた空席に座り、ハナから燗酒でスタートです。彼は若いながらも恵比寿の「さいき」や、ここ「武蔵屋」に常連さんとして通うほど本格的な酒場好き。「武蔵屋」の女将(店主である老姉妹のお姉さん)からも名前で呼ばれているほどなのです。
ビールとお通し / お酒と玉ねぎ、おから / 鱈豆腐
お決まり3品目のつまみは「鱈豆腐(たらどうふ)」です。これはおそらくお客さんが来てから豆腐を温めはじめるために、他の2品と比べて出てくるのが遅くなるのだろうと思います。この店のつまみの中で唯一のあったかいつまみで、「これ、これ。これが食べたかったんだよ」と、久しぶりにこの店にやってきたお客に言わせるほどの人気の品なのです。たっぷりとのせられたシラスやカツオ節、刻みネギ。最後にさっとふりかけられた七味唐辛子の風味もよくて、私自身も大好きなつまみです。
ここらで午後8時半をまわり、店の入口には内側から鍵がかけられます。これ以降は新しいお客さんは入ることができず、店内にいるお客さんが飲み終わって店を出るときに、その都度開けてもらうのです。
1杯目のお酒を飲み終わり、空(から)になったグラスをちょいと持ち上げて合図すると、おねえさんが土瓶であっためられた燗酒を注ぎにきてくれます。トトトと静かに入れはじめ、ツツゥーッと勢いを増しながら土瓶を上のほうにあげ、最後に土瓶を下ろしてきながら注ぐ勢いもスゥーっと弱めて表面張力でピタリと止まります。うまいもんですねぇ。
お酒の土瓶 / 2杯目 / 納豆
2杯目のお酒が出されると、「こちらに納豆をお願いします」と厨房に向かって声がかかり、お決まりのつまみの4品目である「納豆」が出されます。「納豆」が出されてるということが、このお客さんは2杯目のお酒を飲んでるという印になるんですね。
この「納豆」は、味付けも終わり、刻みネギとともにしっかりと練り上げられたもの。出てくるとすぐに食べることができるのがうれしいですね。
この店の大きな特徴のひとつとして、カウンターの上やテーブルの上に、醤油や七味などの調味料や、箸立てなどがいっさい置かれていないことがあげられます。自分が席に座ってから出されるお酒やつまみのお皿以外のものはまったくないのです。だからお客さんが帰ってその場所を片付けると、ツルンと何もなくなって実に美しいのです。
この状態にするためには、それぞれのつまみの味付けを万人受けするものにしておく必要があります。料理を担当しているのはカウンター内の厨房にいる老姉妹の妹さん。先ほどの「鱈豆腐」にも、この「納豆」にも決して濃くなくて、そして決して薄くないといった絶妙な味付けがされているのです。だから調味料を置かなくていいんですね。
そしていよいよ最後の3杯目もピタリと表面張力まで。3杯目のお酒とともにお決まり5品も最後の「お新香」が出されます。「お新香」は大根、きゅうり、紅しょうがなどの5点盛りの小皿です。
3杯目 / お新香 / 小上がり席
ちんまりと盛られたお新香をつつきながら最後の1杯をなめるようにいただいていると、他のお客さんにお酒を注ぎにいった女将が、カウンター内に帰るついでにちょいとお酒を注ぎ足してくれます。お酒はきびしく3杯までのこの店で、ちょっとだけサービスしてくれるのがうれしいですね。
9時を回ると、小上がりの座敷席や、テーブル席のお客さんたちもひと組、またひと組と帰りはじめます。3杯目のお酒を飲み終わったのは、入店からちょうど1時間半後。お酒3杯のフルさんとK氏はそれぞれ2千円。小瓶のビールもいただいた私は2千5百円でした。
3人で「さぁ、次はどこにしよう…」なんて話し合いかけて「うっ」と言葉を飲み込みます。恐る恐る女将さんに顔を向けると「あらあら。できるだけまっすぐ帰ってくださいね」とニッコリ。この「まっすぐ帰ってくださいね」も、この店のお決まりの最後のあいさつなのです。お酒を3杯だけいただいて、あとはまっすぐ家に帰って寝るくらいがちょうどいい量なのだと、先代から伝承されているのだそうです。我われもその「まっすぐね!」と思い出して、思わず言葉を飲み込んだのでした。「いやぁ、それはもう、まっすぐ帰りますとも」なんてわざとらしく答えながら、「どうもごちそうさま!」と心地よく店を後にしたのでした。
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