変わらぬように変える … 酒亭「武蔵屋(むさしや)」(横浜市・桜木町)
今や野毛のみならず、首都圏を代表する酒場と言っても過言ではない「武蔵屋」。今日はムック本の取材で、午後8時半の「武蔵屋」にやって来ました。他のお客さんのいらっしゃる時間帯はご迷惑になるので、開店前か閉店後でないと取材できないのです。
少し前にもコラムに書いたとおり、普段よく行っている店でも、店主にじっくりとお話をうかがう機会はあまりありません。取材ならではの話を聞かせていただけるのが取材のよさです。
いつもはお酒を1杯飲むごとに出される定番の料理も、今日は撮影のために最初から一気に全品出してくれます。上の写真のように、5品の肴が勢ぞろいした状態は、普段ではあり得ない光景です。
ここ「武蔵屋」は大正8(1919)年に酒屋として創業。今年で創業90年となる大老舗です。
酒場になったのは終戦直後の昭和21(1946)年ごろのこと。当時の野毛は、な~んにもないような土地で、現在の“みなとみらい”地区にあった造船所や、船会社の人たちが主なお客さんだったのだそうです。
別名「三杯屋(さんばいや)」とも呼ばれているとおり、3杯しか飲めない燗酒(桜正宗)と、年中いつでも変わらぬ5品の肴が、ここ「武蔵屋」のトレードマーク的な存在です。
「開店したころからお酒は3杯だったわねぇ。お父さんがそれくらいがちょうどいいと言って」
受け皿を置かないグラスに、土瓶から、なみなみと表面張力まで注いでくれるお酒。この「受け皿を置かない」というのも、現在の店主姉妹のお父さんの方針だったんだそうです。手で持つグラスを伝った酒が入る受け皿は嫌、というのがその理由。3杯ルールといい、受け皿を置かないことといい、お父さんはけっこう頑固者だったのかもしれませんね。
料理のほうは、一番最初のころだけ、子安(こやす)でとれたシャコツメなんかも出していたんだそうですが、すぐに現在の5品に落ち着いたんだそうです。
こうやって、何ヶ月ぶりに来ても、何年ぶりに来ても、いつも何も変わらないというのが「武蔵屋」の大きな特長。だからこそ、この店に来ると、ゆっくりとくつろげるのです。
しかし、こうやって「変わらない」状態を保ち続ける努力も大変なことのようです。
たとえばこの店で出される塗り箸(ぬりばし)。いつもビシッと美しい塗り箸が出されるでしょう? この塗り箸は輪島塗りで、ちょっとでも剥(は)げたりしたら、すぐに新品に交換するんだそうです。
店に掲げられている色紙の1枚に、「塗り箸の 剥げて小芋の 煮ころがし」という歌があるんですが、実は塗り箸が剥げた状態というのはあり得ないんですね。この歌を書かれたご本人も、「この店の箸が剥げてないのは知ってるんですが…」と言いながら、この色紙をくださったんだそうです。
味付けもそうです。この店では、カウンターの上にも、テーブルの上にも、醤油や塩などの調味料は一切置かれていません。老若男女、だれもが、あらかじめ味付けされて出されたままの肴をいただきます。これとて、何も変わらないように思えますが、時代に合わせて、じわりと塩分が少なくなってきたりしているんだそうです。
最近、店内の椅子(いす)も新品になったのですが、これも以前とイメージが変わらないようなものになっています。
こうやって、私たちから見ると「変わっていないように見える」ための不断の努力をしてくださっているんですね。
店主姉妹のみならず、お店を手伝っているアミちゃんや、若い学生アルバイトのお二人にも遅くまで残っていただいて、午後10時半頃に取材も無事に終了です。
「取材をさせていただいていても、本当に気持ちがいいお店ですね」
という出版社の人たちの言葉が、まさに「武蔵屋」の居心地の良さを言いあらわしているのではないかと思いました。
このムック本は、京阪神エルマガジン社の「横浜本」。4月23日(木)発売の予定です。
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