女将の昔話をさかなに … 居酒屋「どん底(どんぞこ)」(呉)
居酒屋チェーン店での宴会のあと、ひとりで「どん底」です。樹齢400年の欅(けやき)の1枚板でできた広いカウンター席に座り、「竹鶴17年」をロックでいただくと、お通しには小鉢のカキぬたが出されます。
今日は私以外には客がいなくて、広い店内も女将も独り占め。この店の、そして呉の昔話を聞かせてもらいながら、ちびちびとなめるようにウイスキーをいただきます。
「どん底」の創業店主である、故・垣内廣明(かきうち・ひろあき)さんは大正13(1924)年、兵庫県加古川市生まれ。海軍の水兵さんになるために呉にやってきて、21歳のときに終戦を迎えました。終戦後は、いったん加古川に帰っていたものの、海軍時代の上官二人に誘われて、再び呉にやってきて、四ツ道路(よつどうろ)あたりで、米兵向けのギフトショップ兼カメラ屋を開店。当時の四ツ道路は、闇市もたくさん出ている、にぎやかな場所でした。映画「仁義なき戦い」の舞台も、まさにこのあたりですね。
そして、そのギフトショップの隣のビルにある旅行代理店に勤めていたのが、女将の八千江(やちえ)さんだったのです。その頃は、切符を求めて毎日行列ができるほど忙しかったのだそうです。
そうやって、となり同士で働いていたお二人が知り合って、ご結婚されたのが昭和23年。廣明さんが24歳、昭和4年生まれの八千江さんは19歳です。それから5年、昭和28(1953)年の年末(12月8日)に、ここ「どん底」が創業しました。太平洋戦争の開戦記念日が、この店の開店記念日なんですね。
場所は今の「どん底」と同じ場所で、敷地も今と同じもの。ただし、当時は30坪の敷地のまん中あたりの10坪ほどを使って、カウンターのみ10席の店でした。このときのカウンターは、ナラガシの1枚板を使ったもので、店の形状も、1階建てながら、今と同じように山小屋風の、天井が三角形に高いスタイルだったのだそうです。
「どん底」という店名は、ゴーリキーの戯曲「どん底」から取ったものです。店主・廣明さんは小説家を目指す文学青年で、太宰治に深く傾倒。その後、呉市内の同好の士で作った、同人誌「バルカノン」にも参加しているほどでした。現在も店内にずらりと並ぶ書籍類は、廣明さんがご自身で買い集めてきたものです。
「日本人を相手に、ウイスキーが売れるんだろうか」
開店当初はそんな心配が大きかったそうですが、その後の経済成長などもあって、店は連夜の大人気。カウンター10席ではとても足りなくなって、その脇にバラック造りのボックス席を増設し、それでも足りなくて、逆側にもボックス席を増設して営業するほど。それこそ休む暇もない忙しさが続いたのだそうです。
ちょうど同じ頃に、スタンド「シロクマ」やカフェ「ラパン」、さらにはトリスバーの1軒として「呉トリス」なども続々とも開店しましたが、現在残っているのは、残念ながら「どん底」と「シロクマ」の2軒だけとなりました。
まだまだいろんなお話を伺いましたが、それはまた次の機会に。2時間ほどの滞在は、3,500円でした。どうもごちそうさま。
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コメント
「どん底」は、てっきり「0」ゼロからの出発の意味で付けられたと思っていました。
ニッカウイスキー仙台蒸留所(仙台工場?)では、『宮城峡』を出しています。その前には、その名も『仙台』も出してました。私は『仙台』が好きでした。いまは『仙台』はありません。残念です。
投稿: りゅうちゃん | 2011.05.08 21:00