とり屋創業の真相は?! … 活魚・やき鳥「本家鳥好(ほんけとりよし)」(呉)
「わしゃ、商売人じゃのうて職人じゃけえのぉ。上手は言えんけど、きっちりとええもんを出していくしかないと思おとるんじゃ」
無口な店主、上瀬弘和(かみせ・ひろかず)さんが、焼き鳥を焼きながらボソボソと話してくれます。この店に何度も通ってくるうちに、やっと少しずつお話を聞かせていただけるようになってきたのです。
年明け初の金曜日、呉での今年初の外飲みとなる今日は、呉の焼き鳥屋の元祖、昭和26(1951)年創業の「本家鳥好」にやってきました。
コートを脱ぎつつ、席につくよりも先に「瓶ビールと、みそ!」と注文すると、席につくころにはその両者がスタンバイされています。「みそ」というのは味噌炊き。鶏の皮のみそ煮のことです。
店が創業した頃は、まだ戦後の復興期の真っ最中。鶏だって、今のようにブロイラーがあったりするわけではなく、卵を産まなくなった親鶏などが主役だったんだそうです。その親鶏の硬い皮を、なんとか捨てずに食べられる方法はないかと試行錯誤して生まれたのが、この味噌炊き。
鶏の皮を水炊きにして残っている毛をきれいに取って串に刺し、それを味噌で味付けたスープでグツグツと煮込みます。この味噌炊きも、ここ「本家鳥好」が元祖。のれん分けして他の焼き鳥屋にも広がっていく過程で、串に刺さずにばらのまま煮込む店や、コンニャクを具材に加えたり、さらに根菜類も加える店が出てきたりと、首都圏のもつ煮込みと同じような進化を遂げてきたのです。
呉の焼き鳥屋の始まりについては諸説あって、月刊「くれえばん」2002年10月号の特集『実を言うと呉市はやき鳥シティだったのだ』によると倉橋・室尾(むろお)の長尾一良(ながお・かずよし)さんが、過去の中国新聞の記事では倉橋・鹿島の上瀬稔(かみせ・みのる)さんが、それぞれその始まりとされていて、なにやら食い違いがあるのです。そのあたりを「本家鳥好」店主の弘和さんに確認してみました。
「この店を始めたのは長尾さんよ。稔さんはその一番弟子じゃったんじゃ。わしが二番弟子よの」と弘和さん。
大阪で働いていた長尾さんが、戦後、地元に戻ってきて開いたのが、ここ「本家鳥好」(開店当時は単純に「鳥好」という店名)だったのだそうです。そこに一番弟子として入ったのが鹿島出身の稔さんだったのでした。
現在の店主、弘和さんも鹿島の人で、「鳥好」が創業したころにはまだ学生でした。学校を卒業して、呉の造船所(現在私が働いている会社)の入社試験を受けに出てきたところ、入社試験の日程が変更になっていて、受験することができなくなったんだそうです。困った弘和さんが、親戚のつてで入ったのが「鳥好」だったのでした。
「もしかしたら、あんたの先輩になっとったかもしれんのぉ」と笑う弘和さん。
「でも、そうなってたら、呉の焼き鳥屋の歴史が変わってたかもしれませんね。」
「ほうじゃのぉ。おもしろいもんじゃのぉ。」
そんなわけで、弘和さんがここに入った時には、すでに「鳥好」は開業していたので、正確な開業日はよくわからないんだそうです。
「公式な書類(商工会議所の登録票)で、いちばん古い記録が残っとるんが昭和26年10月なんで、そこを創業の日としとるですよ。間違いなく、その時には開いてたということでね。もしかすると、それより1~2年前にできとるかもしれんのです」と聞かせてくれるのは弘和さんの息子さんの上瀬正智(かみせ・まさとし)さん。なるほど、それで開店の時期が、「呉うまいもん」(毎日新聞呉支局編、昭和49年発行)では昭和25年、先ほどの中国新聞の記事では昭和27年となってたりするんですね。
その「鳥好」の焼き鳥が大好評で、朝から晩まで大忙し。店の前には行列ができ、1日に千本近い焼き鳥が売れたんだそうです。
そこで一番弟子だった稔さんが近くに「第二鳥好」を開店。
お子さんのいなかった長尾さんの「鳥好」は、その後、二番弟子だった弘和さんが、二代目店主として引き継ぐことになったのでした。そのとき弘和さんは若干23歳の青年。それ以来今日まで51年間にわたって、店主としてこの店を引っ張ってきたのです。
その後、弘和さんのおねえさんのご主人(姉婿)も鹿島から出てきて、「鳥好」で修業して独立。それが「第三鳥好」で、のちに「三とり」と改名します。この「第三鳥好」には評判の美人三姉妹がいて、お父さん(弘和さんの姉婿)は長女夫婦に店を譲って、その店を「第一三とり」とし、自らは新たに「第二三とり」を開店して、そちらに移りました。この「第二三とり」を結果的に三女が継ぐようになり、会社勤めをしていた次女の上瀬きよかさんも、後にご自身で「三とり本通店」を開店してと、「三とり」の歴史ができていくことになるのでした。
だから、「三とり本通店」の女将・きよかさんは、「本家鳥好」の店主・弘和さんのことを今も“叔父(おじ)さん”と呼んでいます。ちなみに眼鏡橋交差点近くの「三とり支店」は、「三とり」で修業した人が独立して開いたお店だそうです。
「第二鳥好」の稔さんは、その後、「第二鳥好」を弟さんに譲って、ご自身は広島に進出します。こうして、呉以外の土地への、呉の“とり屋”の進出もはじまっていったのです。(「第二鳥好」は、残念ながら稔さんの弟さんの代で閉店し、現在は「竜之介」として営業しています。)
こうやってどんどん大きく広がっていく“とり屋”は、鹿島の若者にとってもあこがれの的で、かっこうの就職先になり、『“とり屋”と言えば、鹿島の上瀬さん』という図式が確立されていったのでした。
そんな呉の“とり屋”ですが、初期のころはどの店も普通の焼き鳥屋だったのです。その店に生け簀(いけす)や地魚の活魚が入ってきたきっかけについては、また次の機会にご紹介させていただきたいと思います。
大瓶ビール(キリン600円)と味噌炊き(300円)のあとは、吉浦の地酒「水龍」の本醸造(500円)に切り替えて、つまみは牡蠣鍋(800円)。この牡蠣鍋、鶏スープで牡蠣を煮込んで、味噌で味付けされるので、鍋の中で鶏のうまみと牡蠣のうまみと味噌のうまみが合体し、なんとも言えぬいい味わいを作り出してくれるのです。
午後7時過ぎから、閉店時刻の午後10時前まで、3時間近くいろんなお話を聞かせてもらいながら楽しんで、今日のお勘定は2,200円でした。どうもごちそうさま。
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コメント
久しぶりです。このレポ凄い。地元に居るとなおさら。見る・聞く・調べる」。Mr.居酒屋礼賛、浜田さんの真骨頂!
新聞記者でもない、タウン誌の編集者でもない。
ましてや、地元の歴史に詳しい研究者を気取る人では、断じてない。
呉みたいな一地方都市に暮す者にとって、自信が持てます。嬉しいです。
再び「呉のとり屋」でごいっしょしたい。
続編、大いに期待。
投稿: 遊星ギアのカズ | 2012.02.20 22:26
この記事は文句なしにおもしろい。「この店をはじめたのは長尾さんよ」という広島弁は、呉つながりで「仁義なき戦い」を思い出します。
たぶんあの美能組長もこの有名店にきていたのではないかと妄想がひろがります・・
いやあ「鳥好」の履歴というか、ほとんど身の上話、は興味深々です。戦後の食料難をおもわせる工夫料理の「みそ」、一度は食べてみたい。
およそ40年前、広島で大学生活を送りましたが、呉線にはあまり乗らなかったですね。呉という支線沿いの地方酒場ゆえに、とくに光っている話のようにも思います。酒の肴になる話ですね。
投稿: 越村 南 | 2013.12.17 11:00